【昔の飛島】
江戸時代、飛島の戸数は157軒、人口1,000人以内。勝浦村(枝郷小坂村寛文2年頃20戸を含む)、浦村と法木村の3村で、庄内藩に対して年貢スルメ50駄(壱駄二付弐千枚宛)。勝浦19、法木19、浦(中村)12駄の割合で納め、男1人前平年で150枚程度。一戸分(田畑、屋敷割で差)70枚から400枚であった。 田畑が少なく、漁業中心で、主として釣漁でイカ、タラ、スケトウ。さらに島周辺は磯根資源が豊富で、アワビ、サザエ、ワカメ、アラメ、イワノリ、イギス、テングサ、エゴノリ等の採貝採藻で魚類に匹敵する漁獲があった。
しばしば、3部落間の争いが起り、「享保の境論」、「天保の鱈場争い」、「幕末から明治にかけての西鱈場問題」、さらに「対岸吹浦漁民との東鱈場争論」と明治以後も漁場争いがあった。漁業権制度史、漁業法規を研究する学界の好箇の資料として有名である。
飛島は北前船の沖乗航路の中継港であり、酒田の補助港として年間500艘の廻船が出入りして、13軒の問屋が、澗役銭・塩役銭の徴収を行った。藩から島役人が3月から9月まで駐在して役銭の取立てをはじめ、郡代の支配下島の行政に当たっていた。
※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)