【三瀬というところ】 八森山の北麓、三瀬川左岸に発達した宿駅集落である。南方藤倉山より発する降矢川、水無川、西川の三川合流点に位置するところ、「三ツの瀬」三瀬となったという。
部落の起源は第10代崇神天皇の御代三世紀前半、四道将軍大彦命が秋田に至る途中三瀬に宿泊されたと伝えられ、非常に古く開かれたという。
義経記には、源義経主従奥州下りの折、大雨のため三瀬薬師堂に2・3日逗留したと記されている。南方の笠取峠を下って藤太坂をおりたところが三瀬の街で、右岸の気比神社付近から縄文・弥生・平安期などの遺物が出土している。気比神社は丹波国から移住した人々が越前敦賀の気比神宮から勧請したといわれ、農業と武の神を祭る社として信仰を集め、特に歴代庄内藩主の尊崇が厚かった。一帯は気比台の森として神聖な森として保護され、原生の姿を残し国指定天然記念物となっている。
【昔の三瀬】
江戸時代三瀬は、越後と鶴岡・大山・酒田・秋田を結ぶ浜街道の宿駅として賑わい、旅籠屋5軒と茶屋もあり、本陣2軒と高札場、街の東西に木戸があった。文化12年伝馬数約40。西に笠取峠、東に山賊峠といわれた矢引峠の難所があり、旅人が難儀したという。
小波渡・堅苔沢両村は鶴岡城下両肴町の仕入浜であり、三瀬の馬組が輸送に当り三瀬経由で肴問屋に売っていた。
また加茂に薪炭を運ぶ小廻船が30艘位あった。昔の三瀬の漁業は振わず僅かに磯漁を営む者が数軒のみで、林産・耕作に適し、稲作収入が8割をこえていた。
※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)