【堅苔沢というところ】
村内の大波渡山留棹庵円通寺縁起によると、康平4年(1061年)創建と伝えられ、当時すでに小部落が点在していたと考えられる。同寺には地先西方1キロメートル海上の留棹庵島の海中から上った、千手千眼観世音菩薩が安置されている。古くは淵の上・宮田の2部落にわかれ半農半漁であった。宮田は波渡または大波渡とも称し漁業主体。淵の上地区は堅苔沢または中波渡ともいい農業主体であった。現在2つの集落を総称して堅苔沢と呼んでいる。かたのりと称するのりの一種がとれることから、堅苔沢の地名がついたとの説がある。 幕末の弐郡詳記による家数85軒。県漁業誌には明治29年の戸数79戸、人口609人、漁業者数135人。大正5年、西田川郡水産誌に豊浦漁業組合中、堅苔沢の組合員74名とある。鶴岡市合併時の昭和29年末までは、164世帯・人口1,670人・児童数476人と、戦後の人口増を示している。同年の漁船数72隻、うち発動機船11隻・着火船15隻・無動力船46隻。漁獲高547トン・金額2,428万円といわし豊漁に賑わっていた。同年の出稼ぎ者数95人、うち北海道鰊場16人外となっている。
また、北海道方面への大工・左官74人出稼ぎと郷土豊浦に記されており、当村は従前から大工・屋根葺師・木挽の多い集落だったことを示している。
眺望絶景の波渡崎からは、南西遠く佐渡島、近くに粟島が望まれ、北に鳥海山の壮麗な山容が聳える。水面から40mの波渡崎灯台は昭和30年12月初点で、秋田県境の羽後三崎灯台につぐ高土。光度8,500カンデラ・光達距離17,5浬である。灯台の傍らに昭和26年6月15日貞明皇后啓の折、この地で風景をご観賞された縁りの記念碑が建っている。
堅苔沢港は、港口が東に開いた庄内浜随一の好漁港である。古くから時化のため近隣の漁船が、自港に帰帆できない時の避難港であった。横の澗とよばれる岩場の間の狭い舟路を通って出入し、県下最高の出漁数を数える船溜場であった。このため漁民の手で明治42年・大正3年港の改良工事を行った。昭和7年の大築港以来、発動機船・着火船が増加し、底曳網・延縄の沖合漁業が一層盛んとなった。昭和40年からは、東側に県営により新港建設が着手され、防波堤・泊地の拡張・港内静穏等の整備が促進された。
港を見下ろす高所に、平成2年漁業者会が建てた堅苔沢漁業会創立百周年記念碑は、地元漁業者の心意気を示すものである。
※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)