【十里塚の漁業】
浜通り、古湊・宮海・白木・青塚・十里塚の5ケ村を昔遊佐の5浜という。また能登興屋・上林興屋・服部興屋を加えて川北浜組八浦ともいった。この村々は漁業と塩焚を生業としていた。戦前までは鰯地曳網と定置網を営み、北海道出稼漁業が盛であった。
このなかの十里塚は、川南の旧袖浦村・現酒田市の十里塚と同名なので間違わないように、夫々川北の村を下十里塚、川南を上十里塚と区別して呼んでいる。
川北の下十里塚は延享3年(1746)の巡見使御用覚書によると、43軒、213人。漁船8隻、鰯網、手繰網、刺網3役(税金)で2両3分銭811文。塩釜10枚塩年貢7石5斗2升2合で、宮海・青塚につぐ川北では3番目の高。当時より地曳網の村で6納屋制。建網は明治44年に始めて行成網であったが、昭和4・5年頃三瀬の伊関氏に習って両目改良網を導入。当初は雑魚網で鮭は300~400本が平年漁。終戦後は1,000~3,000本と豊漁。昭和24年土門豊吉村議、海区調整委員の尽力で北の建場許可を得て、二ケ統操業となる。昭和30年代の不漁期を克服し、昭和47年起船を動力化、番屋を吹浦に移し十里塚鮭建網組合設立。組合長富樫庄太郎組合員20名。
昭和50年初めには1漁期20,000尾をこえる好漁となり、組合員も50名に増加し鮭景気を迎える。しかし近年不漁期に陥りこの5年は年平均4,000尾弱に激減。早急な資源回復がまたれる。
【宮野浦というところ】
古くから最上川が日本海に注ぐ河口左岸にある砂浜漁村で、酒田発生の地である。
平安中期の拾遺和歌集の古歌にある袖ノ浦は当地といわれる。500年昔の明応年間千数百戸と栄えていたが、水害により酒田は北岸に移転を開始した。以来宮野浦は純漁村となる。浜街道の宿場で伝馬があり、渡船場がおかれた。阿部、白旗等の廻船船宿があり、また享保8年からみを教船が北前船等の水先案内を営業していた。
明治3年の村高帳によると家数142、人数832、船宿業4軒、運上(税金)に地曳網・刺網・八ツ目御役を納め、農業の手透に男女共漁渡世とある。宮野浦は海も川漁も盛で明治30年の県漁業誌には海では鰈・平目が1位、鰯・鯛・コアミ・イナダ・ガザミ・バイガイの順。川では鮭・八つ目鰻・鱒・蜆の漁獲が多く、かっちゃくりという蜆漁で1漁期1戸70円の年もあった。
秋も深まると最上川に鮭が遡上してくると、さけ流網がはじまり、豊漁年には1人1,000匹も漁獲し、越冬米が賄えたという。新堀・鵜度川原の地曳網・居繰網も操業され、一秋で15万尾もの水揚があり、庄内一円、新庄、山形方面にも販売されていた。河口鮭増殖見直しによって昭和40年代に消滅した。
【四ケ浦の村々】
県一円の山形県漁協に合併する以前の旧四ケ浦組合は、その名の通り、西遊佐村、西荒瀬村、酒田、袖浦村の四組合が合併して、四ケ浦組合となったものであり、名づけ親は郡役所技手、県水試場長、加茂水産高校長で初代県水産課長の伊藤金次郎氏だといわれている。
この四組合は大正8月7月飽海郡漁業協同組合連合会(組合員数1,074名)と結成し、漁獲物の共同販売を行ってきたり、また月山丸(木造12トン・焼玉12馬力)を県から貸付をうけて、漁場探検・漁業試験をつづけてきた。
昭和8年の漁業法改正によって漁業組合は、出資性の協同組合として購買・販売などの経済団体としての機能が付与されるようになった。さらに時代は酒田地方においても漁船動力化がすすみ、手繰発動機船が増加し、酒田築港整備の進歩によって漁港が併置された。これらの背景のもと酒田に組合事務所本拠を設置し、四組合の合併を行うため昭和12年12月合併総会を開いた。従来の地域型の漁業権保有団体から脱皮をはかり、産業組合化による経済事業の発展、特に流通販売、資金の融資による事業の強化を目指したのである。組合員1,066名の保証責任四ケ浦漁業協同組合となった。戦時中昭和18年水産業団体法により四ケ浦漁業会と名前が変り、戦後の昭和24年四ケ浦漁業協同組合となった。
※(出羽の海庄内浜「漁業史よもやま話」西長秀雄氏著より)